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YanagawachoStory 柳川町物語
   
  落ち着きのある大人のための空間
 
 

 柳川町が今のように飲食店街となる前は【東京吉原】のような遊郭場であり、さらにその前は湿地帯だったという記録が残っております。様々な時代を経て、今の柳川町の形となりました。
 当店は今年で37年目となりますが、柳川町誕生の歴史から考えれば、まだまだ若輩者という存在でございます。街は生きもの、これから柳川町を魅力ある街にしていくため、今この街に商う私たちが約140年続く柳川町の歴史を知ることが大事なのではと感じました。
 柳川町に遊びにいらっしゃる県内外のお客様やそこで働く者たち、また住民の方々、すべての皆さんがここ「花街柳川町」をこれからも愛し、他のどこにもない価値ある場所文化として認知していただけたら幸いでございます。では、柳川町ストーリーをお楽しみ下さいませ。

 このコーナーの設置にあたって、『柳川町花街物語』著者の はせちゅう様に大変お世話になっております。あらめて心より感謝申し上げます。

 

   
柳川町物語イメージ
 
 
Stories
   
第9話/高崎の赤線地区
   
 

 高崎市においては、柳川町東部地区が赤線地区に指定され、その中での特殊飲食店の営業が許可されました。
 昭和22年5月の高崎警察署「警察事務概況報告書」に次の記述があります。「市内柳川町は関東屈指の私娼婦街にして、事変前、昭和12年度は営業者16戸、酌婦220名を数えたが、戦争と共に酌婦雇入れ困難となり、漸次衰退の一途を辿り、昭和20年末現在、営業者37名、酌婦92名となる。終戦後再び酌婦増加し、終戦後のインフレと米兵士登楼により、一時殷盛を極め、取分け一昨年10月頃より1月頃は最も米兵登楼の多き日は、一日238名を算したり。その後、進駐軍司令官より花柳街に米兵の立ち入り禁止が発せられ、内地人を自ら相手として営業継続中のところ、昭和21年1月マ司令部の公娼廃止の指令あり、同年5月柳川町私娼街に該指令が適用せされ、酌婦は自由の身となり、これがため酌婦110名解雇され、業者損害45万を算し、一時休業状態に至るも、その後、婦女の自由意思に基づく売淫行為は許容せられたる為、再び復活し、目下160名の従事婦が就業している」
 昭和21年には日本国憲法が制定発布され、基本的人権も認められるようになり、身体的にも自由の身となったのです。昭和25年に朝鮮戦争が始まり、日本の産業界が息を吹き返し、それと同時に高崎柳川町の「特飲店指定地区」赤線も復活。花街は不夜城の様相を呈していったのです。
 昭和30年の柳川町東部町内名簿によると、娼家数は41軒で、働く女給という正業を持つ者は250余名となっていました。敗戦の日に衰退しきっていた柳川町花街は、戦前の活況を取り戻し、復活していったのでありました。

   
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